| HOME > 宮城県をもっと知る > 支倉常長| 横沢将監| 後藤寿庵| ソテロ| ビスカイノ| カルバリョ神父 | (2003.08.17 更新) |
幼名は与市・六右衛門、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。
元亀2年(1571年)生まれ。山口常成の子で伯父支倉時正(1200石)の養子となったが、時正に子が生まれたため、半分の600石を譲り受け分家となった。支倉常長については慶長遣欧使節以外にはほとんど知られていない。
慶長遣欧使節とは、伊達政宗が仙台藩内でキリスト教の布教を許可するのと引き替えにイスパニア(現スペイン)領メキシコとの貿易を希望していることをローマ法王へ伝えるために結成された使節であり、 宣教師のソテロを正使、支倉常長を副使とした日本人140名(政宗の家臣、上方の貿易商人、幕府の役人など)、スペイン人40名(ソテロ、ビスカイノなど)がメンバーであった。(人数については諸説あり)
常長が日本人側リーダとして選ばれたのは、「文録の役」の際の外洋渡航や異国滞在の経験が尊重され、鉄砲組、足軽組頭としての経験から一行を統率する能力が評価されたためと言われているが、実は失敗したときの影響を考えて上級の家臣ではない常長が選ばれた、と言われている。
慶長遣欧使節を送り出した伊達政宗の本心は、キリスト教布教のための宣教師派遣や貿易要請もさることながら、徳川幕府に忠誠を装いつつも、将来の海外進出/攻略(スペインやメキシコを征服したいという野望があったという)のための国情偵察、イスパニア、ローマ法王との親密な関係を結ぶことと考えていたらしい。
慶長18年(1613)9月、慶長遣欧使節一行はサン・ファン・バウティスタ号で月の浦港(現石巻市)から出航、90日間の航海の後、当時イスパニア領のメキシコ・アカプルコに上陸した。(日本人乗組員の大半はこのあたりにとどまったといわれ、いまでもパポン(日本人の意)姓や日本に関連した道具の名前が使われている)
ここに支倉常長の上陸を記念して、太平洋を望む形で銅像が立っている。
大西洋はイスパニア艦隊サン・ファン・デ・ウルーク号に便乗して渡り、イスパニアのサン・ルカル・デ・パルラメダに到着。
ここからさらにグワダルキビル河を溯ってコリア・デル・リオで船を下り、上陸する。
ここに支倉常長の上陸を記念して、グワダルキビル河を見下ろす形で銅像が立っている。
1614年12月20日、イスパニアの首都マドリードに到着した一行は王宮近くのサン・フランシスコ聖堂を宿舎とし、
1615年1月30日、ついにイスパニア国王フィリップス三世に謁見し賜ることができた。
常長が国王に政宗の書状と八箇条からなる条約案を提出、国王からは、政宗の希望にできるだけ沿うようにするとの返答があったとされる。
2月17日、常長はデスカルサス修道院で洗礼を受けた。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。
その後バルセロナを経て、1615年11月、ついにバチカン宮殿でローマ法王パウロ5世との謁見が実現した。
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| 月の浦にある、支倉常長の航海図碑 |
常長は、政宗からローマ法王に宛てた「世界中で尊ばれておられます教皇パウロ五世聖下に、つつしんで、私、日本国奥州の大名 伊達政宗はご挨拶申し上げます・・・・」という内容の手紙(この手紙には金箔や銀箔を使った紙を使用していた)を渡し、メキシコとの通商と宣教師の派遣による布教を申し込んだ。
しかし、ローマ法王は宣教師の派遣は同意したものの、貿易についてはイスパニア国王に任せることにした。そのため、一行は再びイスパニアに向かい、ソテロとともにイスパニア国王と会見して布教と通商を希望したが「ハセクラはダテの使節であり、日本国の正式な使節とは認めがたい、また日本ではキリスト教がきびしく弾圧されていると聞く」との理由から許可されず、結果を得ることなく帰路につくことになった。
メキシコまで戻った常長は、サン・ファン・バウティスタ号で迎えに来た横沢将監らとともにアカプルコを出航、帰国の途についた。途中フィリピンに立ち寄ったところでフィリピン政府によって「オランダ艦隊の来襲に備えるため」という理不尽な理由で船を買い上げられてしまい、帰国できなくなった。その後一般貿易船に便乗して長崎に着き、元和6年(1620年)8月、ようやく出発地・月の浦港に帰ってきた。
しかし、帰国した支倉常長を出迎えたのは労をねぎらう言葉ではなく、仙台藩の冷たい態度だった。7年間の旅の間に政宗も徳川家の体制下に収まっていて政宗にとって自らの野望の証、常長の帰国はむしろ迷惑なことであった。 しかも徳川幕府はキリシタン弾圧の政策をとり、キリシタンを受け入れない世の中になっていたため、その後常長は表舞台に立つことはなかった。晩年についても墓についてもはっきりしていない。(墓の諸説はこちら)
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西洋人(サンパウロの領主夫人)から見た支倉常長
左絵は、常長がローマを訪れた際接待役であったボルケーゼ家に伝来しているもの。 ローマ市入市式に臨んだ姿と言われている。 |
| 支倉常長像 宮城県内の3像とメキシコ、スペインの像 | ||||
![]() 仙台城址 |
![]() 月の浦 |
![]() 大郷町 |
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![]() メキシコ アカプルコ |
![]() スペイン コリア・デル・リオ |
| 支倉常長の墓 以下の3説あり。4説目もある(調査中) | ||
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| 仙台市青葉区・光明寺 帰国の翌年、病死 |
黒川郡大郷町・西光寺 仙台藩の直轄地である愛宕山に隠まわれ、84歳まで生きのびた |
柴田郡川崎町支倉・円福寺 実父常成の所領の知行地で、幼少時代をすごしたこの地に隠れ住んだ。 円福寺には巧みに十字架を描き込まれたマリア観音が安置されている。 |
日本では黒船と呼んでいた西洋式の船。当時西ヨーロッパの諸国が本国と植民地を往復するために使用していたガレオン型の一種、ガレウタ型。約500トン、180人乗り。
日本側では伊達丸といったが、ソテロが命名した「洗礼」という意味のサン・ファン・バウティスタ号が一般的となった。(それまで国交のない国へ入国するためにはあちらの船の呼び名を必要としたのである)
幕府の技術者,船大工らと、仙台藩の大工800人、鉄工700人、木材人夫3000人で45日の突貫工事で造船、太平洋を2往復航海した頑丈な船であった。
本計画にはビスカイノの航海術、ソテロの知識、後藤寿庵の工学技術がかなり貢献したと伝えられている。
| 1613年 10月 | 慶長遣欧使節一行を乗せ、月の浦港(石巻市)を出港、メキシコ・アカプルコを目指す |
| 1615年 4月 | アカプルコに1年以上拘留された後、イスパニアから帰国を許可され出港、帰国 |
| 1616年 9月 | イスパニア滞在中のソテロの請求で、横沢将監らが堺港(大阪府)からアカプルコへ向かって出港 (死者100名を出す苦難な航海となった) |
| 1618年 4月 | 支倉常長、ソテロと合流しアカプルコを出港、フィリピンに到着 (その後フィリピン政府に船を買い上げられる) |
サン・ファン・バウティスタ号が造船されたとされる地、雄勝町。
サン・ファン・バウティスタ号は、伊達丸/黒船から「伊達の黒船」とも言われる。江戸時代の3大船の1つとしても有名。
サン・ファン・バウティスタ号の復元に際しては、設計図は残っていなかったが、伊達家の正史「伊達治家記録」で同船の規模・帆柱の長さの記録が残っていたので、 この記載をもとにシミュレーションにより復元、その時問題になったのが「一間」の長さ。時代によって一間の長さが異なるため、太閤検地で用いられた一間=六尺三寸なのか 仙台藩の尺貫法なのか不明であったが、造船工学上からも仙台藩の尺貫法、一間=六尺五寸ということが分かった。
参考サイト/リンクサイト:
■ サン・ファンバウティスタ号(慶長遺欧使節船協会:石巻市)
■ Casa de Sato(スペイン・マドリッド日本人学校に勤務していたSatoTaKaさんのページ)
支倉常長のスペインでの行動、当地「ハポン」姓は支倉一行の末裔 などを紹介しています。
スペイン コリア・デル・リオの支倉常長像の画像を快く提供いただきました。
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