支倉常長を迎えに行った横沢将監

HOME > 宮城県をもっと知る > 支倉常長横沢将監後藤寿庵ソテロビスカイノカルバリョ神父 (2006.12.21 更新)

メキシコに支倉常長を迎えに行った 横沢将監(よこざわ・しょうげん)

横沢氏は、16世紀の中期、国分宗政の次子国分弥三郎が分家して横沢姓となり将監と称した。領地は国分荘山根通実沢村(現泉区実沢)に600石を賜わり、実沢立田館(現泉区寺岡六丁目)に住み、国分氏没落後は伊達政宗に仕えた。

元和2年(1616年)9月、将監は慶長遣欧使節の支倉常長らを迎えにサン・ファン・バウティスタ号でイスパニア領(現スペイン)メキシコに出発、死者100名を出す苦難な航海となったが、翌年5月辛うじてメキシコのアカプルコに入港した。伊達政宗の書状と進物をイスパニア側に渡した将監は、洗礼を受けてドン・アロンゾ・ハシャルドと称した。

常長、ソテロに合流した将監は、元和4年(1618年)4月アカプルコを出航、サン・ファン・バウティスタ号にとって4度目の太平洋横断でフィリピンに到着。ところがフィリピンで「オランダ艦隊の来襲に備えるため」という理不尽な理由で船を買い上げられてしまい、足止めを食らった。 そのため一行は長崎まで一般貿易船に乗り(ここまで同行していたソテロは日本がキリシタン弾圧が激しくなっていると知ってフィリピンにとどまった)、元和6年(1620年)8月、出発地の月の浦港(石巻市)に帰ってきた。

帰国した常長や将監を出迎えたのは、キリシタン弾圧によってキリシタンを受け入れない世の中だった。それで将監は身の危険を感じて棄教、キリシタン関係の法衣等一切を焼き、赤坂(現青葉区赤坂)の谷間に埋めたという。将監のその後については一切不明で、墓もわかっていない。

横沢将監は、奥羽のキリシタンの中で代表的な人物であった。これは元和7年(1621年)8月、奥羽のキリシタンからローマ法王庁あてに出された信仰告白の奉答文(信徒代表17人が署名)で、横沢将監が後藤寿庵に次いで著名していることからもうかがえる。

泉区将監・将監沼 〜 泉区将監の地名は横沢将監にちなんで 〜

左の写真は仙台市泉区将監地区にある将監沼。
昔々は赤坂堤と称していたらしいが、17世紀前半に横沢将監の指導で農業用水の溜池として手を加えられ、そこから将監沼と称するようになったという。昭和40年代、将監沼の周囲の山林に開発された団地名に「将監」の地名がついた。


奥州キリシタンの中心人物 後藤寿庵(ごとう・じゅあん)

伊達軍の鉄砲部隊の武頭であったほど実践的な武士として優れていて、灌漑用水を開設した土木エンジニアでもあり、スペイン語が堪能なことから伊達政宗とソテロとの間の通訳としても活躍している、伊達政宗からの信頼が厚い人物だった。 洗礼名は、ヨハネ・ジュアン。ジュアンを漢字にして本名とした。後藤寿庵の正確な系譜は伝わっていない。

寿庵によるキリスト教伝道は、それまでの理論を中心とした精神指導ではなく、武士としてまたエンジニアとして日常に根差し直結した実践指導を含めて行ったため、仙台領のみならず南部領、秋田領など奥州にまたたく間に広まった。

後藤寿庵がいかに中心人物だったかは、元和7年(1621年)8月、奥羽のキリシタンからローマ法王庁あてに出された信仰告白の奉答文(信徒代表17人が署名している)で、寿庵が最初に著名していることからもうかがえる。

岩手県胆沢町・分水施設 分水施設の敷地にある寿庵の碑 土木エンジニアとしての功績は、1200石を与えられていた胆沢(現岩手県水沢市)に元和4年(1618)〜元和9年にかけて胆沢平野を灌漑する大用水濠の開設したこと。 この地域は豪雪地域で火山灰堆積地帯の流域であった(カルバリョ神父が「さながら砂漠のごとし」と言ったと伝えられている)ため、工事は極めて困難を極めたが、巨岩を並列・畳累させ両岸を固定する「運転機」と称する新型の機械を発明し工事を進めるなど、数々の功績をあげ、用水濠を完成させた。 この用水濠は「寿庵堰」と呼ばれており、現在でも現役である。 左の写真は、右ゲートの寿庵堰と左ゲートの茂井羅堰に 分水している、昭和33年完成の円筒分水工、右の石碑はその施設完成を記念して、 後藤(五島)寿庵の他関係者を合祀した碑

また、寿庵のエンジニアとしての技術は慶長遣欧使節、サン・ファン・バウティスタ号の準備・計画等にかなり貢献したと伝えられている。

東和町・後藤寿庵の碑 元和9年(1624年)キリシタン禁教令が一段と強化され、江戸幕府から伊達家へキリシタン追放の厳命が下った際 (この令でカルバリョ神父が殉教)、政宗は信頼していた寿庵は助け逃した。この時寿庵屋敷に500騎の軍勢を差し向けるなどし大々的な寿庵逮捕を装ったという。その後については不明である。

昭和26年になって、東和町米川西上沢の後藤家の墓地で碑(写真)が発見された。


慶長遣欧使節のリーダ ソテロ(sotero)

ルイス・ソテロは1574年、イスパニア(現スペイン)・セビリア貴族の出身。1624年殉教。フランシスコ会の宣教師としてフィリピンに渡り、慶長8年(1603年)スペインの外交官資格で日本布教の目的で来日した。非常に日本語が巧みで信者を引き付けたという。

その頃フィリピンからメキシコに向かっていたスペイン船サン・フェリーペ号が房総半島沖で座礁し、日本に助け出された。 この船にはフィリピンの臨時総督だったドン・ロドリコが乗っていて、日本を見たロドリコは「キリスト教を広めてスペインの植民地にしよう」と考えた。また、徳川家康は日本人に太平洋横断技術をおぼえさせたいとの狙いから「日本の船でメキシコへ送ろう」と提案した。
この徳川家康の狙いに気づいたロドリコは、たまたま九州に漂着したスペイン船で帰国するからといって江戸を離れた。それを知った徳川家康はソテロに日本の使節を頼もうとしたところ、ロドリコと仲の悪かったのソテロが行くことは、ロドリコが不利になるため九州行きからあわてて家康の元にもどり、思惑通り使節として慶長15年(1610年)日本船でメキシコに出発した。
メキシコでは太平洋を横断してきた日本船に帰りの航路を教えたくないため、船を買い上げてしまい、日本人乗員はスペイン船サン・フランシスコ号で送り返した。ここに大使として
ビスカイノが乗ってきた。

ソテロはその後伊達政宗の側室の病気の治療をきっかけに出会い、伊達政宗の海外貿易による野望とソテロの宣教師としての名声を獲たいという野望が一致したことで、「禁教令」が強化され投獄されたソテロを伊達政宗が助け出すほどの関係となっていた。

慶長17年(1612年)、伊達政宗は正式の使節を送ることについて徳川家康を説得、幕府が船を新造しメキシコへ出発したが、この船は浦賀をでてほどなく暴風雨で難破しおしもどされ計画は挫折した。
その後仙台藩独自でどんな荒海にも耐える巨船を新造することを決意、幕府の許可をもらって造船してのがサン・ファン・バウティスタ号であった。ソテロは慶長遣欧使節のリーダとして支倉常長とローマ法王、スペイン国王に会い、帰路フィリピンまで一緒に行動したが、日本がキリシタン弾圧が激しくなっていると知ってフィリピンにとどまるものの、1622年長崎県大村に密入国、1624年殉教。

仙台市光明寺・ソテロの碑(支倉常長の墓といわれる隣にある) ソテロと伊達政宗との出会いは、政宗の側室(西洋人だったという説もある)の病気をソテロの経営する病院で治療、 全快したことから、厚くもてなし礼を尽くした。その後伊達政宗の誘いをうけ、慶長16年(1611年)仙台に。のちにビスカイノも来仙。

伊達政宗は城門と大広間にキリシタンの布教を認める貼り紙をし、家臣にも洗礼を勧め、町には小さな教会を2つ建てたほどソテロを歓迎したという。 (ただ、その裏で数多くの石仏を破壊したり、その命に従わない住僧を斬るなどのやりすぎもあったという)


スペイン大使として来日、航海術に優れた ビスカイノ(Sebastian Vizcaino)

セバスチャン・ビスカイノは、1548年イスパニア(現スペイン)・ウェルバ生まれ。1615年没? メキシコやフィリピン方面の探検に従事。

ビスカイノは、1611年、メキシコから日本人乗員を送り返す船(ソテロの項参照)で大使として来日。 日本では、徳川家康・秀忠及び伊達政宗らに接触。その後ビスカイノが来日した本来の目的である「日本東方海上にあると信じられていた金銀島」を探索するため、スペイン船サン・フランシスコ号で出港したが、船が壊れ失敗、そのまま出発地の浦賀(神奈川県)に戻った。 翌年、幕府が作った船でメキシコへ出発したが、この船も暴風雨で難破してしまい、再度浦賀に戻ってしまった。

サン・フランシスコ号も幕府の船も使い物にならなくなったので、伊達政宗が船を新造することになった。これがサン・ファン・バウティスタ号である。 仙台に来仙したのち慶長遣欧使節の一員としてサン・ファン・バウティスタ号に乗船。サン・ファン・バウティスタ号が無事太平洋を横断できたのは、ビスカイノの優れた航海術があったからこそ、と言われている。

ビスカイノは著書「金銀島探索報告」の中で、仙台城のことを 「城は日本の最も勝れ、最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、人口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワ(1レグワ=3.924Km)を距てて数レグワの海岸を望むべし」 と書き留め、仙台城を評価している。 


仙台で殉教した カルバリョ神父

ディエゴ・デ・カルバリョは1577年ポルトガル生まれ。長崎五郎衛門という日本名を持ち、時に金色の髪を束ね、ちょんまげまで結っていたという知日家。1624年殉教。
慶長14年(1609年)来日、熊本県天草で日本語の勉強をして近畿地方でキリシタン伝道していたが「禁教令」により一旦中国に去り、元和2年(1616年)再来日した。 その後仙台藩はじめとする奥州各地、北海道にも渡って布教をした。

慶長18年(1613年)のキリシタン追放令の際には「信仰を捨てよ、というわけではない。他人への布教をやめよ」の態度を示した 伊達政宗だったが、元和9年(1623年)3代将軍徳川家光のキリシタン禁教令の時には、仙台藩でのカルバリョ神父や後藤寿庵が活躍していることが幕府の耳に入って、伊達家へは特にキリシタン追放厳命が下った。

広瀬川湖畔・キリシタン殉教碑 伊達政宗はそれでも信頼している後藤寿庵はなんとか助けたが、カルバリョ神父については
 ・幕府の指名手配人で人相書きも回っていた
 ・外国人ですり替えもできなかった
 ・この大物外国人神父を捕らえることは、支倉常長をキリシタン布教の名目で海外に派遣した仙台藩でも「キリシタン弾圧をやっている」とアピールできる
ことなど政宗の計算により、元和10年(1624年)正月、仙台藩宗門改め(キリシタン取締り)で他の8人の信徒とともに極寒の広瀬川で水責めの刑を与えた。


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